久しぶりにFeedlyで人様のブログを見ていた時にある記事に出会いました。それがこの記事。
当時(って言っても1月前くらい)僕は一人で車でぶらぶらしているときに久しぶりにパニック発作が起き、それを引きずってしまい、仕事や今までできていたことでも予期不安が起きるようになり、何とか元に戻ろうと必死でした。
この記事のようなトラウマとかは僕にはあまり関係無いと思うけど、何か回復への突破口がほしい、きっかけがほしいと思っていた僕はこの記事を読んだときに、「瞑想」にもチャレンジしてみようと思いました。藁をもつかむ思いで。
この記事に出てくるプラユキさんは日本人の方でタイで出家したお坊さんなのですが、この方が教える「気づきの瞑想」というものが、僕の頭のなかにある「瞑想」とは違っていて、さらに興味をそそられました。
気づきの瞑想とは
この動画でプラユキさんが直々に「気づきの瞑想」をやり方を教えてくれています。
普通「瞑想」っていうと心を無にしたり空っぽにしたりするために集中してやるものというイメージがありますが、「気づきの瞑想」は集中力はあまり関係ありません。
動画を見ればわかりますが、「気づきの瞑想」は手を動かしていき「今ここに手があるな」と確認していくだけです。瞑想中に他のことを考えてしまってもパッと手に意識を戻し、「今ここに手があるな」と確認するだけです。
「気づきの瞑想」をやっていても「瞑想」をやってる感があまり感じられず「効果があるのかなー」と疑ってしまいそうですが、予期不安や広場恐怖のメカニズムを考えると、「気づきの瞑想」は予期不安や広場恐怖に効果があるんじゃないかと僕は思っています。
「今ここ」がナゼいいのか?
「気づきの瞑想」のことがもっと知りたくてこの本を買いました。
この本には動画にあった「手動瞑想」の他に「歩行瞑想」のやり方も書かれています。また、手動瞑想や歩行瞑想の応用として、日常生活における動作にも瞑想を取り入れ、「気づき」を伴わせていく方法が書かれています。
予期不安や広場恐怖も結局は過去の体験や未来への不安ですよね。それで予期不安や広場恐怖でやっかいなところは、なかなかその考え・思考から逃れられない、ポジティブに考えられないことだと思います。森田療法で言えば「とらわれ」ですよね。
でも日々の生活に「気づきの瞑想」を取り入れれば、そんな「とらわれ」た状態から「今ここ」へ連れ戻してくれるきっかけになると思うのです。
日々の生活に「気づきの瞑想」を取り入れて、いつでも「今ここ」に「気づい」ていけば、過去の体験や未来への不安のことを考えてしまっても、すぐに「今ここ」に戻ってくることができるようになるでしょう。
そうすれば予期不安や広場恐怖も必要以上に大きくならず対処しやすくなるではないかと思います。
苦しまなくて、いいんだよ。
上記でも紹介したこの本。
この本には、瞑想以外に仏教について書かれています。仏教が「誰もが活用できる苦しみからの解放の教え」であり、お葬式などの時だけに使うものでもないし、哲学的思想のような難しいものでもないし、悟りマニュアルのような一部の人のものでないと書かれていて、ブッダの教えを通じて悩む人達を苦しみから解放していく、読み物としても面白いです。
この本では「気づきの瞑想」についてわかりやすく書かれていますので、興味のある方はぜひ。僕がいいなと思ったところを最後に引用しときます。
この手は昨日の手でもなく、明日の手でもありません。「今」の手です。また、どこか他のところになる手でもなく、イメージで描いた手でもありません。「ここ」にあるリアルな手です。手はいつでも中立的で、そして「今ここ」のリアルな手です。ですから、この手に気づきを取り戻せさえすれば、過去や未来にさまよってしまっていた心を、「今ここ」に立ち戻らせることができるのです。
なんであれ、考えごとが生じてきたら、パッと手や足の動きに戻ってくる。『今ここ』に気づく。またふわっとわれを忘れたら、また『今ここ』に気づいて、戻る。そういった感じで気楽にやっていったらいいよ。
―中略―
私たちは、ついつい、ふと、われ知らずに、苦しみにハマり込んでいくことがあるんだ。だから『今ここ』を忘れて、迷い込んじゃったら、すかさず気づいて、戻る。また、忘れて、迷ったら、気づいて、戻る。そんな感じでやっていけばいいんだよ。
まとめ
本の中ではパニック障害の人がプラユキさんのいるタイの寺院に訪れ瞑想に取り組むことで症状を軽減させたと書かれています。
僕もまだ「気づきの瞑想」については初心者なので、気楽に続けてみようと思います。「気づきの瞑想」が僕の生活をより良いものにしてくれればいいんですけどね。
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